ドクターインタビュー 〜ドクターの肖像 盛岡 正博

2010年06月11日

時代の証言者から、時代をつくる者へ。(1)

巨星たちと出会い
地域医療の歴史の証言者と自称する

「地域医療の歴史の証言者かな」と盛岡正博氏は自称する。昼下がり、長野県厚生農業協同組合連合会(以下、長野厚生連)代表理事理事長室でのインタビューは、戦後日本の医療界に多大な影響力を及ぼした人々の人物像にまで及ぶ内容。彼の言葉の意味がよくわかった。つまり盛岡氏は、決して多いとは言えない戦後医療界の巨星の数人とかかわるといった稀な経験の持ち主なのである。かかわった人物の中で彼自身にとってもかなり縁が深く、医療界では知らぬ人のない2人がいる。徳田虎雄氏と若月俊一氏だ。

 盛岡氏は徳之島出身。徳田氏と同郷ゆえ、彼が徳洲会グループの病院で働いたのだと考えても不思議はない。徳田氏と旧知の仲なのだと冗談を口走っても、誰も疑わないだろう。しかし事実は、1981年までお互い存在さえ知らなかった。2人を引き合わせたのは映画プロデューサーとして高名な山本又一朗氏。盛岡氏の叔父にあたる。

精神科医療における挫折渡米、
そして意外な出会いで帰国

盛岡氏10歳、弟さん7歳のときに徳之島(当時はアメリカの信託統治下)よりパスポートを取得して鹿児島にわたる(1953年)

「叔父は、撮影でロスにたびたび来ていたので、アメリカ留学中にはずい分世話になりました。あるとき彼から本当に気軽に、『徳田という友人の始めた京都の病院がうまくいっていないようだ。もし良かったら、手伝ってはどうか』と持ちかけられました」

 京都大学卒業後1970年から約9年間、民間病院で精神科医として精神科病棟開放化運動に加わっていた盛岡氏は、一定の成果をあげたものの患者の処遇問題や疾病論などを巡って内部混乱する精神科医療に見切りをつけ、医師を辞めようかとさえ考えていた。

 そんなころ、突然、家庭の事情で留学できなくなった先輩の精神科医/森下一氏のすすめで渡米が決まる。かといって、もう一度、精神科医として再出発しようとの意思があったわけではない。

市来中学校時代にはバスケット部で活躍。右端の15番が盛岡氏(1956年)

「渡米前に僕の中で、精神科に区切りはついていた。ひょんな理由でアメリカに行ったのは、もしかするとジェネラルフィジシャンとして、強い差別を受ける有色人種や移民の医療にたずさわれるかもしれないと考えたから。ただ、学生運動で反米を叫んでいた僕にとって、決してアメリカは好意の持てる国ではなく、気は進んではいませんでした(笑)」

「しばらくアメリカにいるうち、この地でマイノリティのために働く医師になろうかと思わないでもなかった」と告白するが、すでに渡米時に36歳、機会があれば日本でジェネラリストになりたい気持ちがあって当然。叔父からのすすめは、多分に魅力的に響いただろう。

 いずれにしろ、精神科医療における挫折、渡米、そして意外な出会いと、彼の人生の駒が進んだことだけは確かなようだ。最後には帰国を選び、特定医療法人徳洲会京都宇治徳洲会病院に赴任。38歳の研修医として内科を学び直す覚悟を決めた。

(2)へ続く

記事提供:株式会社メディカル・プリンシプル社
『DOCTOR'S MAGAZINE』2010年3月号より
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プロフィール

盛岡 正博 (もりおか・まさひろ)
長野県厚生農業協同組合連合会代表理事理事長
1968年京都大学医学部卒業
1970年医療法人稲門会岩倉病院(精神科)
1979年米国ボストン小児病院(客員研究員)
1981年特定医療法人徳洲会京都宇治徳洲会病院、
埼玉医療生活協同組合羽生総合病院、
徳之島徳洲会病院等
1988年湘南鎌倉病院開設者・院長
1995年長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院
1997年長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院人間ドック科部長
2002年長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院副院長
2007年長野県厚生農業協同組合連合会代表理事専務理事
2009年長野県厚生農業協同組合連合会代表理事理事長

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