2012年04月26日
震災に遺憾なく統率力を発揮。
その底流に「会津什の掟」があった。(1)
「ならぬことはならぬものです」
会津気質を表すものとして、よく引用される言葉である。この言葉は、江戸時代に会津藩が藩士の子弟を教育する組織である「什」のルールとなっていた「会津什の掟」の中にある。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ。
三、虚言をいう事はなりませぬ。
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
六、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
ならぬことは、ならぬものです。
会津藩は、徳川二代将軍秀忠の四男、保科正之を初代藩主として、江戸時代末期まで会津松平家として代々続いた。徳川本家と親戚筋でもあるため、忠義を尽くし、幕末には京都守護職に任ぜられ、薩摩藩や長州藩と敵対した。そのため、後に起きる戊辰戦争では、天皇を擁立した新政府軍から京都での恨みをぶつけるかのように、猛攻撃を受けることになる。地元では、戦争といえば会津戦争のことなのだ。それほど激烈を極め、特に白虎隊の話は、会津人でなくても、胸を打つ。石巻赤十字病院の飯沼一宇院長は、飯盛山で自刃した白虎隊の唯一の生存者、飯沼貞吉の孫に当たる人だ。
「祖父は私が生まれる10年も前に他界しています。小さい頃はほとんど祖父の話は聞かされませんでした。医学部に進学したころも、ほとんど意識をしていませんでしたね。しかし、会津気質の『頑固や律儀』といったものは、自分の中にも流れているような気がします」
父親が祖父のことをあまり話さなかったことは、ひょっとすると飯沼氏に十字架を背負わせたくないという配慮だったのかもしれない。
貞吉は生涯、逓信省公務員として全国を転々としたあと、仙台に移り住み、昭和6年(1931)に仙台の輪王寺に葬られる。享年77歳だった。その後、戊辰戦争九十年祭の時に会津の飯盛山墓碑が建てられ、生き残りの汚名を返上している。
3月11日午後2時46分
そのとき、石巻赤十字病院は
生理学実験で学友と(ごく普通の学生だった。右から4人目)(1964年)
2011年3月11日。石巻地方は、にわか雪に見舞われていた。石巻赤十字病院の飯沼院長は、日本赤十字本社での会議に出席していた。
午後2時46分。ゆーらゆーらと、2006年に沿岸部から移転・新築した石巻の石巻赤十字病院を突然揺らし始めた。免震構造を施していたため、棚の倒壊などは起きなかったが、揺れは数分にわたって続いた。間髪を容れず病院内は停電になり、自家発電に切り替わる。これが、「東日本大震災」と呼ばれ、日本の観測史上最大規模であるマグニチュード9・0を記録した地震である。石巻の震度は6強だった。震源域は、岩手県沖から茨城県沖まで南北約500キロメートル、東西約200キロメートルに及んでいた。ただ、この地震はこのときの大きな揺れだけにとどまらなかったのだ。
飯沼氏は、この地震に東京都内の日本赤十字本社で遭遇する。東京都内の震度は5強。都心部では揺れそのものによる被害は大きくなかったが、鉄道を中心にほとんどすべての交通機関が麻痺、推計で515万人が帰宅の足を奪われた。いわゆる帰宅難民となったのだ。飯沼氏は気が気でなかった。災害優先電話で病院と連絡を取り、対策本部を立ち上げたことを確認した。「石巻の状況は?早く戻らなければ……」。
(2)へ続く
記事提供:株式会社メディカル・プリンシプル社
2012年1月号より
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- 「最も重要なのは統率とリーダーシップ。 それを組織全体で守る協力体制です」
- 飯沼一宇 (いいぬま・かずいえ)
- 日本赤十字社 石巻赤十字病院 院長
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1967年 東北大学医学部卒業 東北大学医学部附属病院にて臨床修練 1968年 東北大学医学部附属病院小児科入局 1973年 東北大学医学部附属病院小児科助手 1975年 東北大学医学部小児科講師 1977年 医学博士 1979年 米ハーバード医科大学留学 1988年 東北大学医学部小児科助教授 1994年 東北大学医学部小児科教授 2001年 東北大学医学部附属病院副院長 2003年 日本小児神経学会理事長 2005年 東北大学医学部小児科教授退職 2005年 石巻赤十字病院院長 石巻赤十字看護専門学校校長 -
・役職 日本小児神経学会名誉会員
日本てんかん学会名誉会員
日本赤十字社医学会理事・専門医 小児科専門医
小児神経科専門医
てんかん専門医
日本臨床神経生理学会認定医(脳波分野)


